高い満足度でリピートしていただくプロモーションの構築を得意としている。
なお本人は熱烈的な納豆親父である。弱点はあさりとシジミ。
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幼少期
1985年9月8日。ぼくはこの世に生を受けました。
父、母、弟、ぼくの4人家族で、
父は祖父から受け継いだ自動車販売業を営んでいました。
そのためぼくも、小さい頃からなんとなく
「将来は、ぼくが継ぐんだろうな〜」と思っていました。
飛行機や電車、船といった乗り物が好きで、
熊本にいる母方の祖母のところへ行くときに
新幹線がみれるのが楽しみで仕方なかったです。
新幹線の種類を覚えるのも好きだったのですが
なぜか福山〜博多間の駅名も暗記していました。
ただ、乗り物に乗るのは弱く、
車に乗ってても急に気分が悪くなり
勝手に窓を開けて“オエーッ!”ってしていました。
小学生時代
乗り物に弱いぼくですが、父が買ってくれた
ポケットバイクに乗るのは平気でした。
1度だけ、運転させてもらったのですが、
ものすごく楽しかったのを覚えています。
だけど、「ポケットバイクに乗りたい!」と言っても
父は二度と許してくれませんでした。
そのかわり、半強制的に地域の少年野球や、
サッカーチームに入れられました。
でもぼくは、運動神経は全くなく、
嫌すぎて全く長続きしませんでした。
それは、小学校高学年になっても
変わりませんでした。
1年間行うクラブ活動を決める場面があったのですが、
最後まで決めることができず
“レクリエーション部”という謎のクラブに
配属されました。
もちろん、活動内容は全く記憶に残っていません(笑)
中学校時代
「このままじゃダメだ!」ということで
中学校からは本気でクラブ活動をすることを
志ました。
球技はヤダと決めていたので
小学校からの友達と一緒に柔道を選択しました。
まともな運動をしていなかったので
周りのみんながガンガン練習を続けるなか
すぐ息があがっていました。
先輩たちからは
「ヘボ!」「ザッコ!」と
言われ続けました。
そう言われるのは辛かったのですが、
同級生の仲間に置いていかれるのはもっと嫌だったので
必死に練習しました。
その結果、副将という立場でレギュラーに
そして、黒帯を取れるまでになりました。
高専時代
高校に進学する時
”高専“という5年間行く工業系の学校を
選択しました。
なぜなら、その時いまだ
「将来は家を継ぐんだろうな〜」と
思っていたからです。
15歳で家を出て、寮生活をすることになりました。
5年間クラス替えはなく、
寮に帰っても同じ顔ぶれを見るので
酸いも甘いもとことん共有する
仲間ができました。
次に選んだクラブ活動はラグビー。
これならできそう!と
なんとなく決めたのがキッカケでした。
けどここでも練習についていけませんでした。
柔道をがむしゃらにしたことで
多少はスポーツに対して自信が持てるように
なったのですが、
同級生が淡々と練習をこなすなか
ぼくだけぶっ倒れていました。
仲間に置いていかれたくない一心で
またもや必死に練習しました。
その甲斐あって
いち選手として認められ、レギュラーを
取れた時は
ものすごく嬉しかったです。
ちなみに、3年生のとき
長年付き合っていた彼女と別れることになり
その後5年間、彼女のいない人生を
送ることになります。(泣)
会社員時代
就職活動の時期が近づくと
「いよいよ家業を継ぐときがきたか、、」
と、思うようになりました。
しかし、親の方から何のアクションもなかったので
それなりに聞いてみると、、
「好きに生きてくれ」
と、言われました。
正直、拍子抜けしましたが、
とにかく就職しなければならなかったので
地元の製鉄所に決めました。
けどそれが、なかなかハードだった、、
設備の状態を管理する仕事だったのですが、
工場は24時間フル稼働しています。
なので、どんなに残業して、
やっとの思いで家に帰って眠りについても
休日にリフレッシュしている最中でも、
設備にトラブルがあると
「今すぐ出勤しろ」
と言われていました。
そのストレスを解消するかの如く
友人と毎週のように合コンを開いてました。
その出会いの中でも、ぼくが高専時代の学園祭で
メインステージにたったり
プロレスをパフォーマンスしている姿を
見てくれてた人が数人いて
「記憶に残ってます!」
と言ってもらえたことには少し驚きました。
世間は狭いなーと
実感した一コマでした。
でも肝心の仕事は、上司にバカにされる毎日。
先輩たちは「気にすることないよ!」と
励ましてくれましたが、
ハンマーで頭を叩くといった
体罰的なものや、身体的特徴をバカにする
言動が目立ったので、
怒りの頂点に達していました。
そして、入社2年目で
「辞めさせてください」とお願いしました。
けど、何も考えず感情に任せて
言ってしまったので
ふと冷静になったとき、急に
職を失う恐怖に迫られました。
なので、「辞めさせてください」と
言った、2日後には、
「働かせてください」と
頭を下げていました。
ワガママかつ無計画な行動をとったにも
関わらず、ぼくを受け入れてくれた
職場に感謝をおぼえ、
ますます懸命に働くようになりました。
といっても、罵倒や暴言はそうそう
なくなるものではありませんでしたが、
それでも仕事に励むうちに
「田辺がいないと職場がなりたたないよ!」
と言ってもらえるくらいになりました。
そうする内に、当時付き合っていた彼女と結婚。
1年後には子供もひとり授かりました。
ところが、、、
ターニングポイント
2015年のゴールデンウイーク。
ぼくは、高専時代の同窓会として
とある居酒屋にいました。
すると、このような賑わう場が大好きな
友人の姿がないことに気づきました。
その友人は、ぼくの知らない所で
不慮の事故で
首の骨を折り全身麻痺となったらしく、、、
だから、同窓会に行きたくても行けないと
いうのです。
現実を受け止めきれない一方、本当かどうか確かめてやる!
という気持ちがあふれ、一人でお見舞いにいきました。
ドキドキして病室にはいったのですが、
ベッドで横たわる友人の姿を見て
「おお!思ったより元気そうじゃんか!」
と、失礼極まりないことを
いってしまいました。
なぜなら、パッと見が
高専時代から嫌というほど見続けた
ベッドで寝ている姿そのものだったからです。
だけど、よく見ると
首には人工呼吸器用のチューブが
ささっており、
室内にも人工呼吸器の動く音が
シュコーシュコーと
響いていました
首の損傷が激しく、呼吸の機能が
停止してました。
友人のお母さんから
「この子が心配しているのは
自分からは何にもできないから
社会や友達にいつか忘れ去られることなの」
という話を聞いて、
ぼくは「何かいい方法はないか?」と
探すようになりました。
そんな中行き着いたのが
“コピーライティング”というもの。
たとえ、全てを失っても紙とペンさえあれば
文字通りゼロからいくらでもやり直せるという
稼ぎのスキルです。
そして、パソコンさえあれば、
竹串を口にくわえて、文字をタイピング
することもできます。
ぼくは「これだ!」と思いました。
コピーライティングのスキルを手に入れるため
本も500冊以上は読んだし
音声を聞いたり、映像を大量に見て勉強したり、
先生をつけたりしました。
(300万円以上は投資したなぁ〜汗)
朝4時に起きて勉強をして出勤、
夜は12時まで勉強する毎日を繰り返しました。
休日も子供の面倒を妻に完全に任せ、
部屋にこもってひたすら勉強する日々を
過ごしました。
大好きだったお酒もテレビもタバコも
遊ぶことも当然やめました。
でも、すぐに成果がでたワケじゃありません。
数ヶ月かけて130人程度の集客をおこない
初めてセールスをかけました。
売上は10万円にも満たなかったのです。
真っ暗闇の海原に
ドボン!と突き落とされたような気分。
自信は完全に崩れました。
友人を救えるスキルだと思ったのに!
嘘の話をつかまされたのか!?
不安で不安でたまらなくなりました。
それにこのことを相談できる仲間も
周りにはいませんでした。
でも、諦めきれませんでした。
なんとしてでも友人を一人ぼっちにしない!
社会復帰させる!
と、本気で思っていたからです。
だから、コピーを書く仕事がないか
探し回りましたし、
先生にも頼み込んで、経験を積む場を
提供してもらえるようお願いしたりと
とにかく行動をつづけました。
すると、そんなうちにいくつかの幸運にも恵まれ
複数の起業家の方たちの
プロモーションやセールスレターを
書かせてもらうことができました。
そして、そのなかで
2億5000万円や4億円といった
億を超える売上に貢献できたのです。
そこでやっと、このスキルは本物だ!と
思えるようになりました。
友人が、社会復帰する第一歩を踏み出せる!
ぼくは嬉しくてたまりませんでした。
だけど、待っていた現実はそう甘くはありませんでした。
友人はドクターヘリで搬送中に呼吸が止まっていたため
低酸素脳症にかかっていました。
そしてその影響で、視力がほぼない位に低下していたのです。
だけど、友人は嬉しそうでした。
絶望しかない世界でしたが、視力を回復させれば
まだ望みがあると感じてくれたようです。
思い通りの結果には、まだ程遠いですが
彼が生きる希望を持てたのは、ぼくは本当にうれしいです。
そして、完全に社会復帰できるまでサポートすると
覚悟を決めました。
またここ日本には、いい商品を扱っているけど
肝心の“販売力”がない企業がたくさんあることも
知りました。
そんな企業の苦しみを、今まで
コツコツとつみあげた“コピーライティング”のスキルを
駆使して、少しでも和らげれればと思い
独立することを決めました。
ぼくが今まで学んだことのなかで
強烈に印象に残っているものがあります。
それは、
「行動するなら100%コミットしよう。99.9%ではダメだ。」
という言葉です。
何か自分を変えるなら、覚悟を持たないとダメ。
そしてその覚悟も、100%でないとダメ。
0.1%でも、迷いの心があると、その気持ちが膨らみ、
諦めや妥協につながり、結果だれも救うことができなくなる
という教えです。
なので、この先どんな困難が立ちふさがっても
100%乗り越えれると信じて行動することで
友人が社会復帰できる日をつくれるんだと本気で思っている。
またこの力こそが、今の日本をもっと盛り上げる為の
数少ないキーポイントだと信じている。
常に覚悟をもち、100%コミットする。
こうすることで人を救うことができますし
僕たちが理想とする場所にたどり着くことが
できるのです。
あなたには、どんな理想の場所がありますか?
そして、理想の生き方とはどんなものでしょうか?
あなたがそこに行くためのサポートができれば
ぼくはとても嬉しいです。
それでは、あなたの人生が
ますます豊かになりますよう
心から祈っております。
ここまで読んでくださりありがとうございました。
田邉輝恭